スポーツの力

 

野球部のマネージャーという存在に小学生の頃から憧れがあった。

中学生になって部活ができるようになったら、絶対に野球部のマネージャーになるんだ! と決めていた。

決めていた割には野球自体にあまり興味がなく、ルールも知らないし覚える気もなかった。

実際に中学生になると、野球部はあったもののマネージャーは募集していなかった。

仕方がないのでマネージャーになる夢は高校生になったら高校生になってから叶えよう、ということで、共学の高校に進学し念願だった野球部のマネージャーになった。

 

そこでようやく野球の用語やルールを覚え、初めて野球の試合をきちんと観た。

球種も見分けられなかったのでスコアもろくにつけられず、マネージャーというかただの雑用係だったのだが、それでも十分楽しかったし、何より野球のルールを覚え野球観戦の面白さを知ることができたのは最高の宝物だ。

 

あれから十数年、野球観戦というと夏の甲子園を少し見たりワールドカップWBCで日本中が盛り上がっている試合を見たりするだけだった。

いわゆるミーハーというやつだ。

今回のWBCも、何やら盛り上がっているぞ? と気付いてなんとなく観始めた。

野球のルールを覚えておいて本当に良かったと、心底思った。

盗塁がどうとかキャッチャーの送球がどうとか、知識が何もない状態で観るより確実に楽しめた。

めちゃくちゃ面白い。めちゃくちゃスゴイ。

こんなすごい試合滅多にない。

久しぶりにもっと野球と関わりたいとさえ思う試合だった。

 

試合に夢中になりすぎて、鬱屈とした悩みを忘れられたのもよかった。

試合が終わればまたすぐに戻ってきてしまうが、今日ばかりはあの素晴らしい試合の興奮に包まれたまま一日を終えられそうだ。

大好きな仲居くんが大喜びする姿を拝めたのもこれほど尊いことはない。

侍ジャパンのみなさん、そしてアメリカの選手たち。

本当にありがとうございます。

 

すべての人に幸あれ。

 

幼馴染

 

幼馴染の両親が、何年か前に離婚した。

母親同士が仲が良く、その話ももちろん母から聞いた。

その時はふーん、としか思わなかったが、どうやら父親はモラハラだったそうだ。

あっさり離婚できることになった私と違い、かなり揉めてなかなか離婚できなかったらしい。

本格的に離婚に向けて動き出したのは子どもたちが成人した後だと思うが、それ以前からモラハラは当然あったのだろう。

子ども二人を立派に育て上げるまで耐えた彼女は凄すぎる。

 

同級生とは高校が別になってからは全く接点がなくなった。

私がよく知っているのは中学生までだが、勉強も運動もよくできる、いわゆる優等生だった。

性格も良く、素直で優しいはにかみ屋だった。

彼もモラハラを受けていたのかは知らない。

だが人の気持ちに鈍感な様子はなかったので、両親の不仲には気付いていたと思う。

モラハラは受け継がれてしまうものらしい。

彼のあの人当たりの良さも偽りで、家の中では好き放題に振舞っていたのだろうか。

その可能性を確実に否定できないことが少し悲しい。

 

私の記憶にある彼のお母さんはとてもきれいな人だった。

いつも明るく笑っていて、身だしなみもきちんとしていてとってもオシャレ。

当時もモラハラの攻撃を受けていたのだろうか。

だとしたら私には到底及ばないほど強い人だなと思う。

たった半年モラハラ夫と過ごしただけで体調を崩し身なりに気を遣う余裕がなくなった私にはとてもじゃないけど真似できない。

子どもたちの世話も抜かりはないように見えた。

お弁当もきちんと作るし、厳しく叱る姿も見たことがある。

彼を接しているとお母さんのことが大好きなんだなと感じる瞬間が幾度もあった。

それだけで、彼のお母さんが彼にたっぷりと愛情を注いできたことがわかる。

 

人当たりの良いあの頃の彼が本来の姿でありますようにと願わずにはいられない。

母の愛が子どもたちをモラハラの連鎖から守っていますように。

モラハラをしない、強くて優しい彼のままで幸せになっていてほしい。

そして彼のお母さんも、ようやく取り戻した自分の人生をしっかり楽しんでいたらいいなと思う。

 

 

 

 

学びと気付きとブロックと

 

気付きがあるとその分心が楽になる。

ブロックが外れるという言い方でもいい。

 

ブロックが外れたら外れた分だけ思い込みがなくなり、楽に生きられるようになる。

 

もうしんどい思いはしたくない

もっと楽に楽しく生きたい

 

そんな気持ちから、ブロックを外すことに一生懸命になりすぎてしまうことがある。

それがまさに今。

 

もっと気付かなくては

もっと学びを

もっとブロックをなくすワークを

 

やみくもに進むうちにはたと立ち止まる。

仮に全てのブロックが外れたとして、完全にストレスフリーの状態になることはあり得るのか?

ありとあらゆる気付きや学びを得て、悟りの境地に達することが望みなのか?

 

悟りの境地に達したとしても、周囲の人から心ない言葉をぶつけられることもあるだろう。

悟っていたら完全にスルーしてフラットでいられるのだろうか。

できるとしたら、それはその逆の嬉しい言葉を感じる気持ちもフラットになってしまいはしないだろうか。

 

もしそんなことが可能だとしたら、その状態はもう人間ではない気がしてしまう。

そして私は人間でいたい。

心ない言葉をぶつけられたらきちんと傷つきたい。

寄り添ってくれる人のあたたかみを感じて喜びたい。

そういうことを楽しむために、この肉体を持って生まれてきたはずなのだ。

 

人間を楽しむのであれば、ブロック上等である。

そもそも私の周りにある全てのものは、必要だから存在している。

ブロックもまた然り。

必要だからあるだけで、必要がなくなれば外れるだろう。

もちろん自然に外れるわけではないはずだ。

何せここは行動の星、地球。

きっと必要がなくなった時は自然とブロックを外す行動を起こすように、心や現実が動くのだろう。

 

だから一生懸命がんばってブロックを外したり「ここから得られる気付きや学びは何だろう」と必死になる必要はない。

ゆるっと、ふわっと。

 

歯を食いしばったまま眠ってしまうのをなんとかしたいな、と思ったことから得た気付き。

ゆるっとふわっとが足りないというメッセージかもしれない。

 

 

人間、楽しんで。

 

 

 

闇の魔法学校

 

闇の魔法学校という本を読んだ。

このところ素直で真っ直ぐな性格の主人公の本ばかりを好んで読んでいたので、初めは主人公の拗れた性格に辟易した。

さらに私の好きな、パステルカラーが似合うようなファンタジーとは程遠い。

どうあがいても暗くて重苦しい色を連想させるダークファンタジーで、何度も読むのをやめようと思った。

 

もう少しだけ、と少しずつ読み進めていくうちに、いつの間にか物語に引きずり込まれ、気がついたらページをめくる手が止まらない。

拗れた性格だと思っていた主人公もめちゃくちゃピュアな印象に変わり、思わず吹き出すシーンや登場人物たちとともに声をあげて笑ってしまうシーンまであった。

 

この本はシリーズもので、続きがあるらしい。

最後の一行でとんでもないクリフハンガーをやられたおかげで、第二巻が読みたくて仕方がない。

ハッピーエンド至上主義の私としては是非とも数々の障害をはねのけて2人が結ばれてくれたら嬉しいが、果たしてどうなるのか。

 

主人公の辛辣でユーモアのある毒舌な語り口にまた出会える日を楽しみに、明日の仕事もがんばろう。

仕事の最中に主人公を心の中に召喚しても楽しそうだ。

 

お返しします

 

距離感の記事で、好感を持つことの話を広げようかと考えていた。

 

好感を持つと許せる範囲が広がる。

例えばよく知らない人が相手だと「こんなことでミスするなんて…!」と腹立たしく思うことも、好感を持つ人がミスした場合は「しょうがない、なんとかなるよ!」と思えることがある。

知らない人よりも知ってる人、好きじゃない人よりも好きな人のほうが、「大切にしてあげよう」という気持ちになりやすい。

 

距離感の記事の彼女も、知らない人から知ってる人になった私に対して笑顔のプレゼントをくれた。

私との関係性を大切にしたいという気持ちを受け取った。

 

 

この気持ちを利用するのがモラハラ

「好きならこれくらい許せ」

「俺はお前のためにこんなに我慢してるし許してるし尽くしてるのにお前は俺のために何もしないのか」

相手の優しさを利用して罪悪感を煽る悪質な手口だった。

 

そもそも何をどこまで許すのか、我慢するのか、尽くすのかはその人自身が決めることであって、何をどれだけしてもらったからこれだけ返さなければいけない、というものではない。

 

夫は普段の仕事でも

「俺は普段他のヤツらより頑張ってるから多少のことは許される」

「これだけしてやってるから文句は言わせない」

と言っていた。

 

そう思う気持ちはわかるけど、その考え方だといつか苦しくなる時が確実に来る。

私自身も、どうしてこんなに頑張っている私ばかりが報われないんだろうと悩んだ時期があった。

夫に伝えようと試みたが、案の定わかってはもらえなかった。

 

そうして自分はしょっちゅう遅刻や当日欠勤を繰り返し、それでも許される自分は特別だと自慢していた。

そのくせ他の社員が休むと

「他の社員に迷惑がかかることがわかってないあいつはクソだ」

「ろくに仕事もできないくせに休みやがって」

と繰り返し暴言を吐く。

そんなに困るなら本人に伝えたり上司に訴えればいいのに、職場では決して言わずに無関係の私にだけぶちまけていた。

 

初めの頃はそうだよね、困るよねと聞いていた私もいよいよ呆れ果て、その言葉全てブーメランですが、と心の中で思いながらフーンと聞き流すようになった。

 

 

こんな感じでふとしたきっかけで夫のことを思い出してしまう。

そして死ねと言われてひどく傷ついたことを思い出し、むしろ夫が死ねばいいのにと思ってしまう。

 

先ほどふと思い出したことは、いらないものは受け取らなければいいという話。

仏教の教えだったと思う。

仏陀がめちゃくちゃ暴言を吐かれたが全スルーしたというような話だった。

仏陀がその人に「たとえばあなたがプレゼントを差し出して私が受け取らなかったら、そのプレゼントは誰のものになる?」と聞くとその人は「自分のものになる」と答えたそうだ。

そりゃそうだ。

いらないと言われたら「そっか」と戻すしかないし、無理やり押しつけようにも受け取ってもらえないのだから自分で持っているしかない。

仏陀曰く、暴言も同じとのこと。

 

そうか、素直に受け取る必要なかったんだ、と腑に落ちた。

とはいえうっかり素直に受け取ってしまった上に今日まで無駄に大事に保管してきてしまったので、かなり新鮮な状態を保ったまま私の心の中にある。

いらないと思ったら速攻で返したいと思うのだが、実際に会うわけにもいかない。

そこで夫の姿を想像し、にっこり笑って言ってみた。

 

「ごめーん、うっかり素直に受け取っちゃったけど、いらないし必要ないから返すね! 死ね♡」

 

ちょっとスッキリした。

 

 

 

 

距離感

 

人と関わると必然的にその人を知ることになる。

その人を知ると、距離が縮まっていく。

 

職場に少し苦手な人がいる。

何かあったわけではない。

単純に第一印象で、なんとなく合わないなと感じただけの人。

だからといって避けるわけでもなく、とは言え仕事でとくに関わることもない。

あちらも親しくない相手に用事もないのに話しかけてくるタイプではなく、私の名前すら覚えていない、挨拶と事務的な会話をするだけの間柄だった。

 

その関係性に進展があったのはつい先日のこと。

彼女から初めて仕事の依頼が舞い込んできた。

普段他の人に仕事を依頼している彼女を見ていると、かなり大雑把に「あとはよろしく!」と任せているようだった。

私に対しても「いつまでにやっといてね」という感じで来るのかと思ったが、案外と細やかな気遣いをしていただけた。

私がどれくらいの仕事量をこなすのか知らないこともあり、私の普段の仕事優先で構わないことや手に負えなければできるところまででそのまま戻していいことを伝えてくれた。

納期についても「逆にいつまでにできる?」と私に確認したうえで、かなり余裕のあるスケジュールを設定してくれた。

ひねくれた見方をすれば私の能力を全く信用していないと見ることもできるが、知らない相手と仕事をするのだからそれくらい慎重になるのは当然だと思った。

性格的には合わないが、きちんと仕事と向き合っていて相手への気遣いも忘れない素敵な人だと思った。

 

その後仕事は無事終わり、数日経ったある日、トイレでバッタリ鉢合わせた。

以前も同じシチュエーションがあったが、その時はお疲れ様ですと頭を下げる私に無表情で会釈するだけだった。

しかし今回、私が声をかけると彼女はにこやかに応え、さらに話しかけてくれた。

 

今回の仕事で彼女と話した時間は5分にも満たない。

共に過ごした時間は皆無だが、仕事を通して距離が縮まったことを実感した。

 

にこやかに話しかけてもらえるととても嬉しい。

笑顔の可愛い人だなと好感を抱く。

 

そして今日、彼女は満面の笑みで先の仕事の進捗を報告してくれた。

私の仕事は彼女に提出した時点で終了なので、その後の進捗は教えてもらわないとわからないし、教えてもらえなくても一切支障がない。

しかし教えてくれた彼女の心遣いがとてもとても嬉しかった。

またよろしく、と言ってもらえた瞬間、信頼関係が生まれた気がした。

 

納期の当日、追加の仕事を頼まれた。

ちょうどお昼に出ようと思っていた時間帯で、納期はその日いっぱいという約束だった。

お昼に出るか一瞬迷って、けっきょく私はその仕事を優先させた。

普段忙しい彼女が珍しく事務所にいるのだ。

早めに提出できれば、彼女がチェックできる時間が増えるかもしれない。

そう思って(それとお腹が空いたから早くごはんを食べたい一心で)急いで仕上げて提出すると、彼女は驚きながら受け取っていた。

 

私の気持ちまで受け取ってくれたのかはわからないが、私にならまたお願いしたいと思ってくれたことがとても嬉しかった。

 

嬉しいし素敵な人だと思うけど、やっぱり性格的にはどうしても合わないと思う。

この先彼女と友人として仲良くなることはないだろう。

それでも仕事を通じて彼女のことをもっと知り、距離は縮まっていくはずだ。

良いと感じる面も悪いと感じる面もあるだろう。

あまり近付きすぎない程よい距離感で付き合っていけたらいいと思う。

 

 

 

好き嫌いと潜在意識

 

苦手な人はいても嫌いな人というのはそうそういない。

私にとっては合わない人だったり嫌だなぁと思う人でも、別の誰かにとってはとても大切な人でもある。

 

そもそもどんなに腹立たしい人でも関わるうちにひとつやふたつ、必ずいいところが見つかる。

すごいなと尊敬できることだったり、かわいいなと微笑ましく思うことだったり、素敵だなと憧れることだったり。

 

そういう一面を知ればなおさら嫌いになんてならない。

嫌いから好きになることはあっても、好きから嫌いになることはないと思っていた。

 

だから今、死を願うほどに夫を嫌っている自分に戸惑っている。

 

 

毎日のようにふとしたきっかけで夫のことを思い出し、死ねばいいのにとイライラする。

怒りがおさまらなくなる。

他人をここまで嫌うことができたのかと驚くほど、これまでの人生では無縁の感情だ。

そしていつまでもこんな思いに囚われている自分が嫌だ。

やめればいいのにやめられない。

 

 

今朝も何かで夫のことを思い出し、死ねばいいのにとイライラしながら雨の中を歩いていた。

水たまりを避けても靴が濡れる。

不快な状況も相まって余計にイライラしていたら、向こうからやってきた車のタイヤが水たまりを踏んだ。

水しぶきが控えめに、しかしバッチリ私を狙って靴にかかった。

 

マジか、と思わず走り去った車を振り返る。

今までどんなに派手に水を跳ね散らかしている車からも水をかけられたことはなかったのに。

しかも今の車は水をはねさせないようにスピードを落として走っていた。

にもかかわらず、だ。

 

なんてついていないんだろう、と肩を落としかけたとき、はたと気が付いた。

 

もしかしてこれ、やめときなさいって言われてる?

 

車とすれ違ったちょうどその時、死ねばいいのにと思っていた。

頭に血がのぼっていた。

そんな時に冷たい水を控えめにかけられた。

ちょっと落ち着いて、やめときなよ

と言われたように感じた。

 

私の周りの世界は私自身でもある。

死ねばいいのにと思う一方、そう思う自分をやめたいと思う私もいる。

自分の頭の中だけでやめることができないから、そちらの私が車と雨を使って「ほら、やめときな」と伝えてきた。

そう考えるとストンと納得できた。

車にも感謝の念が湧いてきた。

もしここで気づかないままイライラし続けていたら、今度は「頭を冷やせ!」と頭までびしょ濡れになっていた可能性もあったかも……なんて考えると少し笑えてくる。

 

今回はわかりやすいサインだったが、私の周りには私がなかなか気付かないサインがもっとたくさん溢れているのだろう。

そういうひとつひとつを全部読み取れるようになったらもう少し楽に生きられるようになるだろうか、と思うこともある。

そのためにはもっといろんなことを注意深く見て、きちんと感じとれる心を準備しておく必要がある。

 

幸いなことにいろんな人がいろんな方法を編み出して本やネットでシェアしてくれているので、私はそれを探して気に入ったものをやればいいだけ。

今はちょうど7曜日メソッドという本を読んでいる。

今日は土曜日なので、エスプレッソとかりんとうを買って休憩時間に楽しもうと思う。

ちなみに昨日は金曜日だったので、マシュマロを食べた。

かなり久しぶりに食べたのだが、とても美味しく感じてすごく幸せな気持ちになれた。

 

砂糖がダメとか添加物が気になるとかあるけれど、今はとりあえずそういうことは置いといて、手軽に幸せを感じる時間をどんどん増やしたい。