学びと気付きとブロックと

 

気付きがあるとその分心が楽になる。

ブロックが外れるという言い方でもいい。

 

ブロックが外れたら外れた分だけ思い込みがなくなり、楽に生きられるようになる。

 

もうしんどい思いはしたくない

もっと楽に楽しく生きたい

 

そんな気持ちから、ブロックを外すことに一生懸命になりすぎてしまうことがある。

それがまさに今。

 

もっと気付かなくては

もっと学びを

もっとブロックをなくすワークを

 

やみくもに進むうちにはたと立ち止まる。

仮に全てのブロックが外れたとして、完全にストレスフリーの状態になることはあり得るのか?

ありとあらゆる気付きや学びを得て、悟りの境地に達することが望みなのか?

 

悟りの境地に達したとしても、周囲の人から心ない言葉をぶつけられることもあるだろう。

悟っていたら完全にスルーしてフラットでいられるのだろうか。

できるとしたら、それはその逆の嬉しい言葉を感じる気持ちもフラットになってしまいはしないだろうか。

 

もしそんなことが可能だとしたら、その状態はもう人間ではない気がしてしまう。

そして私は人間でいたい。

心ない言葉をぶつけられたらきちんと傷つきたい。

寄り添ってくれる人のあたたかみを感じて喜びたい。

そういうことを楽しむために、この肉体を持って生まれてきたはずなのだ。

 

人間を楽しむのであれば、ブロック上等である。

そもそも私の周りにある全てのものは、必要だから存在している。

ブロックもまた然り。

必要だからあるだけで、必要がなくなれば外れるだろう。

もちろん自然に外れるわけではないはずだ。

何せここは行動の星、地球。

きっと必要がなくなった時は自然とブロックを外す行動を起こすように、心や現実が動くのだろう。

 

だから一生懸命がんばってブロックを外したり「ここから得られる気付きや学びは何だろう」と必死になる必要はない。

ゆるっと、ふわっと。

 

歯を食いしばったまま眠ってしまうのをなんとかしたいな、と思ったことから得た気付き。

ゆるっとふわっとが足りないというメッセージかもしれない。

 

 

人間、楽しんで。