ハプニング

 

朝、醤油差しを倒してしまった。

ガシャンと音を立てて倒れた瞬間、やっちゃった! とぼんやりしていた頭が一気に冴えた。

父の朝食の準備をしていた母が「どうした?やっちゃった?」と声をかけてくれる。

「お醤油こぼしちゃった!ごめん」と言いながら醤油差しを拾いあげる。

母が急いで布巾を用意してくれるのを確認しつつ、醤油差しが壊れていないかチェックする。

割れも欠けも、ヒビさえ入っていないことに安堵して、私は母から布巾を受け取った。

テーブルに広がる醤油。

朝の忙しい時間に、母に余計な手間を増やしてしまった。

「もったいないね。ごめん」と言うと、母は汚れた布巾を私の手から取って「あとはやるから食べちゃいなさい」と言ってくれた。

ここでもう一度「ごめん」と言わずに「ありがとう」とだけ言った。

なんとなく、そのほうがいいと思った。

最初にごめんと言った時、よく聞こえなかったが醤油をこぼしたのは母に原因があるようなことを言っていた気がした。

醤油差しを倒したのは誰がどう見ても明らかに私なのに。

母はこうしていろんな場面で、自分のせいではないことも自分のせいだと責めてきた人なのかもしれないと思った。

そんな母に伝えるのは謝罪の言葉よりもありがとうのほうがいい気がした。

 

母の事情はともかくとして、こぼれた醤油を拭きながら、何かをこぼしたらこうして拭けばいいだけだよなあ、と思っていた。

夫と付き合い始めて間もない頃、私の家でごはんを食べている時に夫が何かをこぼしてしまったことがある。

テーブルの上だけでなく床にも少しこぼれていたかあまり覚えていないのだけど、食器が割れたり熱いものをこぼしたわけでもなく怪我や火傷の心配はなかったので、「ごめんごめん!」と慌てふためく夫に私は笑いながら「こぼれちゃったね、大丈夫?」と声をかけた。

夫はこぼれたものを拭きながら「ごめん、ホントごめん」と深刻な顔つきで繰り返すので、「大丈夫大丈夫。拭けばいいんだから」と言った。

それでも「ホントごめんね。俺ホントダメなやつだよね」と落ち込む夫に、私はすごく違和感をおぼえた。

謝る、落ち込むだけでなく、私の顔色を窺っている様子があった。

今思えば、ただの自己肯定感の低さからくる行動というだけでなく、こいつにはどの程度の嫌がらせができるのだろうか、というチェックに繋がる行動だったのだろう。

 

その後の夫は何かをこぼしてもこの時のように謝ることは一切なくなった。

逆に私がこぼした時は「しょうがないやつだな」「どうしようもねーな」と言うようになり、機嫌の悪い時には「あーあ、せっかく洗ったばかりのこたつ布団にこぼされた。また洗わなきゃじゃん。最悪」とネチネチ文句を言われ続けた。

書きながら改めて思う。最悪。

 

しばらくこんな夫と暮らしていたので忘れていたけど、母の対応が普通だよなあと思った朝だった。

 

 

もうひとつ、なんとなく考えたことがある。

醤油をこぼしたらもったいない。でもまあこぼれたものは仕方がないし、拭けばいい。こぼれた醤油が床や壁、布類にも広がってしまったらちょっと面倒だけど、それも拭いたり洗えば済むこと。シミは残るかもしれないけど。

 

という考え方なので、基本的にこぼしても「あっやっちゃった!」と一瞬焦るだけ。

子どもの頃はさらに「やばい! ママに怒られる!」が入った。

 

こぼすことに限らず大抵の失敗に対してそんな感じに考えているが、失敗=絶望になる人もいるよなあと思う。

妹がまさにそう。

 

夕食の最中、妹がお茶をこぼしてしまったことがある。

「あっ!」と悲鳴をあげた妹を見ると、倒れたマグカップを見つめてフリーズしている。

「やっちゃったね〜大丈夫か〜」と母と私でお茶を拭き(思い返せば母はこの時も「私がここにマグカップを置いたせいで…」と自分を責めていた)、食卓が元通りになったところでようやく妹のフリーズが解除された。

「ごめんなさい…こぼしたうえに何もしなかった…」と謝る妹を見て、ああ、子どもの頃と変わらないなあと思った。

 

 

私はしょっちゅう忘れ物をする子どもだった。

忘れ物が多すぎて放課後居残りでお説教されたこともある。

しかし、先生や親にどんなに叱られても忘れ物がなくなることはなかった。

なぜかと言うと、困ってなかったから。

 

教科書を忘れたら別のクラスの子に借りるか隣の席の子に見せてもらえばいいし、ノートは自由帳やいらないプリントの裏に書けばいい。

上履きはスリッパを借りれば済むし、体操服も借りるか最悪私服でOK。

 

一方妹は滅多に忘れ物をせず、極々稀に忘れ物をするとこの世の終わりのように感じてしまう子だった。

小学校で初めて忘れ物をした時は泣いてしまい、先生に叱られるどころか「大したことないから大丈夫よ」と元気付けられたそうだ。

 

同じ家庭で育ったのにこうも感じ方が違うのは面白いなと思う。

2人を足して2で割ればちょうどいいのにね、とよく言われたし今でも思う。

 

 

夫にしても妹にしても、拗らせてるな〜と思う一方、私自身も醤油をこぼした時のように淡々と対処できず、他人の顔色を窺ったり思考が停止してしまうことがある。

 

夫に関することがまさにそれで、頭が真っ白になるくせに、何かにつけて夫のことを思い出す。

それからあまり親しくない人や少し苦手だと感じる人は、つい顔色を窺ってしまう。

おそるおそる話しかけ、にっこりしてもらえるとホッとする。

こういう怯えた態度は非常に失礼だと思う。

過剰な防衛は攻撃と同じだと恩師に言われたことがある。

当時は言っていることはわかったが、腑に落ちてはいなかった。

今はとても理解できる。

夫のことは特殊な事情があるにしても、こちらの過剰防衛についてはもう少しなんとかできないものか、考えよう。